もしも制度相手に戦争しようというんなら、聡明な女の子らしい銃の撃ち方をしなくっちゃ、だって敵はそっちなんだろう。
世界に対して「祝福してくれ」と言いたくなったら、サリンジャー の「フラニーとゾーイー」の一文を思い出す。自分が考える正義にまったく即しないこの世界というものに対して、妹のフラニーはひたすら苛つきをあらわにして呪いの言葉をつぶやく。そんなフラニーに言うのがタイトルの言葉だ。
ゾーイー「しかし、ぼくの気に入らないのはだな――そして、これは実は、シーモアにもバディにも気に入るまいと思うんだが――そういう連中のことを言うときのきみの言い方なんだ。つまり、きみは、彼らが象徴してるものを軽蔑するだけじゃない――彼らそのものまでを軽蔑するんだ。それでは人身攻撃にすぎるよ、フラニー。(略)もしも制度相手に戦争しようというんなら、聡明な女の子らしい銃の撃ち方をしなくっちゃ――だって、敵はそっちなんだろう。彼の髪のやり方やネクタイが気に入らないというのは関係ないよ。」
「祝福してくれ」と言いたい人は、砂漠でカラカラに喉が乾いた人のように、世界から認められることを渇望している。だがその叫びは残念ながら人の耳には入らない。人は聞きたいものだけを聞き、見たいものだけを見るからだ。そうして世界に無視されたと絶望する人の声はますます大きくなり、するとそれに比例して人々の耳も固く塞がれる。
もしなにかを聞き入れてもらいたいと思うなら、聴く人の耳触りの良い、素敵な音と言葉で訴えなければならない。それが、"女の子らしい銃の撃ち方"なのではないかと思っている。